生の躍動

昨日は気温も高くなっていたし、暖冬傾向にあるし、ということでやって来たのだが、桜は例年通りのリズムを刻みたいと思ったのか、蕾のままでした。何時間も歩いてみた結論は、ちらほら咲き始めているといったところでしょうか。見頃にはまだ時を待たなければならないようです、残念。

平日に訪れることは出来ず、タイミングが合わなければ今年はお預けの可能性も。それならばいっそのこと、桜が過ぎた後に自分の心に触れたことを思い出してみる。

この写真を撮った景色(201X年)のことが今のことのように感じられるのですが、現実の2020年3月21日には、河川敷は緑がまだ少ないまま。人は多く出て寛いだ雰囲気はあったのですが、今のコロナ危機のこともあり、どこかしら荒寥感も漂っているような気も…。いやいや、明るく明るく!

唯物論者は脳髄が出来たから意識が生じたと考えるが、かえってベルグソンの如く我々の感官という如きものはエラン・ヴィタールが物質界を貫通した跡方と考えることができる、視力の流の跡に眼というものが出来たと考えることができる。…本当は我々の世界と考えるものは、瞬間が瞬間自身を限定することから始まるということができる。…一方において自己が過去の過去から限定せられると考えられるとともに、一方において自己は未来の未来から自己を限定する意味を有っていなければならない。過去もなく未来もなく、到る所が今であり、到る所に時が始まる永遠の今の自己限定として世界が始まるということができる。」(『私と汝』西田幾多郎

同じ河原に立ったので、赤茶けて来た文庫本を少しだけもう一度開いてみたのでした。

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