写真について私が思う2、3の事柄 その1
4月7日から続いていた非常事態宣言は、地元大阪では5月21日に解除された。京都、兵庫も同時解除となった。
1ヶ月を超える自粛でお店もほとんど閉まっていて、運動不足を解消するのに行けるのは公園ばかりでした。同じ公園にばかり出かけていても飽きてくるので、すごく久しぶり、何年かぶりに訪れた公園もありました。
その時の印象。すごく殺風景な砂場、こんな感じだったかなと思って、ハッと思い出しました。パンダの形をした椅子がないんだということを。
6、7年以上前のことですが、50mmレンズをしっかり使おうと決意した時があり、その時はニコンFやFM2にパンケーキの50mmをつけてカメラバッグに常に入れていて撮りたいと思ったらさっと撮るということをやっていました。この公園でもパンダの椅子を撮った筈。
その時のポジを見つけ出しました。パンダは塗装が剥がれ、錆が浮き出た何かくたびれた感じを纏っていました。歴史というほどの重さではないけれど何かを感じてその時シャッターを切ったような気がします。
安全性を深く考察していなかった時代の遊具の危険性が現実化してしまう不幸な事故が全国的に起こってしまい、遊具撤去が全国レベルで広がったのでしょう。
確かに写真を見てみてもボール部分もささくれ立っている感じがするので実際に危険だったのかもしれません。
何年もの間、親しみを持って扱われてきたものが、ある日無くなってしまうこともある。現実の砂場は目印になるものは無くなってしまいましたが、安全な場所として今は存在していてそれは良いことだと思います。
不思議な感覚は写真を見返した私の心に起こったものです。それは写真と現実は実際上は異なってしまった以上、2020年5月現在にもはやパンダ椅子は存在しないのに、ポジを見ている限りはそれは今も存在しているような気がするというものなのです。
そして現実の姿を借りながら現実とは異なっていく運命を持つ写真的事実を創り出す側面に写真の魅力を感じているのだなと改めて思いました。
命に限りがあり不条理とも言える断絶も起こりうる現実世界(特に新型コロナウィルスに纏いつかれると直面する現在の危機)に生きているからこそ、永遠の現在に対する憧憬があるのかもしれない。
コロナの衝撃は甚大でおそらく何年か後には教科書にも記載される事象でしょう。例えば、911やリーマンのような。
コロナ以前と以後では決して戻らない事柄もある。
それでも再び写真を撮りに出かけられることに感謝しつつ、再びシャッターを切っていく。