選択
人間の情報処理能力に関しては、毎秒、目、耳、鼻、皮膚から入ってくる1100万ビットの情報のうち意識が処理できる量はわずか毎秒40ビットのみなのだという。意識が追いついていないにもかかわらず、私達はリアルな世界に生きていると実感しているのですが、それは意識が処理できる40のみを選択し、それ以外を捨象し、しかもその取捨選択の0.5秒の時間を虚構化しリアルタイムで世界を経験しているように感じる仕組みになっているからとのこと。
以前そんなことが書かれた記事を読んで驚きました。『ユーザーイリュージョン』という書物に関するものだったと思います。
意識のシステムがそのような限界の中で精神の平穏を保つように創られているとするなら、そのシステムを機能不全に追い込むような意識活動はしない方が良いのではないかと考えたことがあって…。別の言い方をすれば、ポジティブシンキングということになるのでしょうか?
ここに写っている風景はどうでしょうか?不穏な雲の動き?大海にポツンと浮かぶ孤独な船としての自分?生命の儚さ? 確かに危機回避という活動を導く限りにおいてはそう考えるのもありかも…。
でも、意識の機能によりマッチした選択は、雲の合間から差し込んでいる光、その光に包まれていることを感じることではないかと思います。
いつものフィルム讃歌になって恐縮なのですが、今でもリバーサルフィルムで撮影するのはその光をよりアクチュアルに感じられるツールであると信じているからに他ならない。
映像としてはデジタルでも同じといえば同じかもしれないのですが、自分が見た光を閉じ込めたと思うポジフィルム(物理的存在)をライトボックスに載せて眺めて見たときに自分に迫り来る感じは…実体のない画像を画像ソフトで鑑賞するときとは何か違うのです。うまく言えないのですが。 フィルムの物質性…。
なので、いざというときに私の精神にとってフィルムはすごく力強い味方です。
喪失感を感じる時、フィルムを手に取ってみる。
そんな行為がどこかで誰かがその人にとっての大切なフィルムによって行われていることも願いながら…